宗教法人 瀧法寺

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天智天皇ゆかりの紀伊之国十三仏霊場  伊奈瀧大法院萬徳山  瀧法寺
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紀伊之国十三仏霊場

家内安全円満繁栄・先祖代々菩提御英霊の菩提・水子精霊・良縁成就・厄除開運・学問向上・交通安全・願望成就・病気平癒などの為に、紀伊之国十三佛霊場を巡拝してみては如何でしょうか。

地図

 

 

第1番 不動明王 総本山 根来寺

宗派:新義真言宗

〒649-6202 和歌山県岩出市根来2286

TEL:0736-62-1144

根来寺は、くわしくは一乗山根来寺大伝法院といいます。今から千三百年の昔に役の行者は、葛城二十八カ所の一行場に連なるこの地を、仏法隆昌の所と定められていました。

その後寛治年間(1987年)になって、この地の豊福長者の寄付で豊福寺(根来寺と称する以前の寺名)が建立され、長承元年(1132年)には、鳥羽上皇の院宣によってこの寺を付近の岩出、山崎、岡田、山東、弘田の五つの庄園と共に興教大師に下賜されたのです。

 

第2番 釈迦如来 南岳山 円蔵院

宗派:明算真言宗

〒648-8275 和歌山県和歌山市南相生丁28

TEL:073-422-6710

元和年間に今の京都市藤の森により宥位上人により現在地に還り、本堂、護摩堂、鎮守社、鐘楼、僧坊等有り、参詣人引きもきらずにぎわっていたが、昭和29年7月9日夜の米軍空襲により境内地を残すのみで後は全て灰燼になってしましました。

 

第3番 文殊菩薩 法華山 普門院

宗派:高野山真言宗

〒649-7202 和歌山県橋本市高野口町伏原154

電話(0736)42-3028

■御本尊 十一面観世音菩薩

開創 推古朝の頃、聖徳太子開基。

 

第4番 普賢菩薩 密厳山 聖天宮 法輪寺

宗派:真言歓喜宗

〒640-8343 和歌山県和歌山市吉田495

TEL:073-423-2726

往借、弘法大師の開創と伝えられ、開創以来八百年間は有田郡石垣組(現吉備町垣倉)に在りて鳥屋城主畠山氏累代の祈願寺として寺領数百石を寄附せられ七堂伽藍薨を並べ輪奐の美を競ひたるに、天正年間鳥屋城陥落の時兵火の為め大伽藍什宝及び往古の旧記尽く灰燼に帰す後享保年間中興開山本明比丘は御室総法務頼遍大僧より授かりし秘仏歓喜天尊を捧持して霊夢の冥示ありし当名草郡吉田の里の伽藍相応の地なるを悦び此処に当寺を移し給う是吉田聖天宮の濫觸なり。

爾来、歓喜天尊の霊徳日夜に発揚し、本明比丘の薫化四方に普及し四民翕然として帰響す。

終に国主第六代徳川宗直卿深く当寺歓喜天を尊崇し給い、当山は和歌山伏虎城の艮位に当るを以て永く鬼門除けの霊窟たらしむ。

第十代の国主治富郷亦篤く歓喜天を尊信せられ偶々夫人貞恭院殿風眼を患い医薬其効なく因厄の折当時の住職本善律師に祈誓せしめられるに僅かに一日にして抗うが如く快癒なし給う。

国主の信仰地に比倫なく尋いで天保年間本堂を始め諸堂を再建寄進せらる。

弘化年間第十一代国主斎順郷嗣子なきを憂い男子生誕を歓喜天尊に懸願し遂に菊千代君(後の家茂公)の降誕を見る。

此君十三歳の時、江戸徳川家に入りて第十四代の征夷大将軍となり位内大臣に進むまことに霊顕の顕著にして神徳鴻大なりと云ふべし。

爾来有徳の住職相嗣ぎ四方の信者朝夕に参拝し、香煙日夜絶ゆることなき有様なりしに、昭和二十年七月九日太平洋戦争の戦火を蒙り敵機の爆弾により境内の建物殆んど灰儘に帰したり。

戦後河内天野山金剛寺より普山せし俊乗和上の営々再建復興に懸命の努力により、十方の信徒物心両面の協賛を得て戦後直後離散せし信徒も現在万余に及び神徳愈々広大無限なるに崇敬者日夜参詣し旧状の如く香煙絶ゆることなき現状なり。

殊に俊乗和上は知名の文人墨客、芸能界の人々との交流あり、芸能達成の祈誓の為め参拝あり、歓喜天尊の霊徳今も猶現住和上をして顕現なさしむ。

 

第5番 地蔵菩薩 易産山 地蔵寺

宗派:高野山真言宗

〒648-0082 和歌山県橋本市菖蒲谷94

TEL:0736-32-1774

当寺は、天平九年の春、行基菩薩の開基にて本尊地蔵菩薩も行基菩薩の御手刻の御尊像にて女人安産守護の為、比地に安置なされたもので、子安地蔵と称します。天正九年信長の勢、信孝による高野攻の時兵火にあい、地蔵堂は消失いたしましたが、御本尊は人里離れた山中に難をのがれたのを村人によって発見なされました。その地「かくれがた」なる地名現在いたします。そののち紀伊大納言頼宣郷によって、お堂を建立なされ地蔵尊を安置し、正保五年田園弐町歩を本尊香花の費に供養なされた、そののちも南龍院様十一ヶ度に及ぶ御参詣をなされ、お手植の松数十土に及ぶも近年の松くい虫にておしくも枯死するが、法燈一千二百有余年連綿として絶えることなく安産の御利益に浴するもの多数なり。 

 

第6番 弥勒菩薩 万年山 慈尊院

宗派:高野山真言宗〒648-0151

和歌山県伊都郡九度山町慈尊院832

TEL:0736-54-2214

当院は、1160有余年前、弘法大使が、高野山開創のときに、高野山参詣の要所に当るこの地に、表玄関として、伽藍を草創し、高野山一山の庶務を司る政所を置き高野山への宿所ならびに冬期避寒修業の場所とされた。 

 

第7番 薬師如来 幡川山 禅林寺

宗派:高野山真言宗

〒642-0028 和歌山県海南市幡川424

TEL:073-482-1894

■薬師院禅林寺(真言宗)の由来

禅林寺は、俗に幡川のお薬師さんと呼ばれ、広く人々に親しまれています。当寺院は今から千二百有余年前、唐(中国)の青龍寺の僧為光上人が修行道場にと、聖武天皇よりこの地を頂き、同天皇の勅願所として建立した寺院です。当時は七堂伽藍の精舎であったが、建武以前に金堂を始め寺庫までも火災にあい焼失、再興された後も、天正十五年に豊臣秀吉の南征による兵火により再び焼失し、広大な寺領も没収されました。(諸堂の跡は地名として今なお残っています。)その後、中興秀慶僧正が再興しようと志し、ご本尊を求めている時、夜な夜な光輝くものがあり不思議に思い登ってみると本尊の御首でした。同僧正はそれを捧持し、寺に移して、直ちに京都の仏師高慶に土で御尊体を作らせそれが現在の御本尊です。

本尊 薬師如来(秘仏)坐像3尺5寸

開山為光上人が、青龍寺より七仏の内一体を携えてきた仏様です。

特に眼病、その他の病にご利益あり、お薬師様は「わが名号を一たび耳に聞くとき願いとヾけん」の誓願通り多くの人々が救われています。

足神 本堂東側にあり、神経痛、りゅうまち等々にご利益あり。

境内の裏山には、約二百年前より新四国八十八ヵ所をお祭りしています。お四国にお参り出来ない方や願事成就の為多くの人々が、お参りし、又年に一度の旧正御影供には、大勢の信者さんとトーバ供養し、おねりをします。

 

第8番 観世音菩薩 鷲峰山 興国寺

宗派:臨済宗妙心寺派

〒649-1103 和歌山県日高郡由良町門前801

TEL:0738-65-0154

大阪、天王寺より阪和線で和歌山に至り、次いで紀勢本線に乗り継ぎ、一時間ほどの紀伊由良駅で下車すると、北西1キロ山手側に臨済宗、法燈派本寺興国寺がある。

かつて白隠禅師に「紀に興国寺あり」といわれ、宗風一世を風靡し、「関南第一禅林」として世にしられた禅苑である。

 

第9番 勢至菩薩 清流山 浄教寺

宗派:西山浄土宗

〒643-0854 和歌山県有田郡有田川町長田542

TEL:0737-52-2469

御本尊 阿弥陀如来

 

 

第10番 阿弥陀如来 白華山 観福禅寺

宗派:臨済宗妙心寺派

〒649-2332 和歌山県西牟婁郡白浜町栄162

TEL:0739-45-0345

当寺は鎌倉中期に法燈国師を開山、覚元禅師を草創、吉田小将範盛を開基として創建される。これ以前の上古草創については不明、正安4年(1302)の覚元禅師住持の節の六波羅御教書が残されている。往古は七堂伽藍地にて塔頭寺領を有していたが、天正年中兵乱のため炎上、法燈派の法系も覚元―玉川―享菴の三代でとだえ、寛永初年龍賀法印(田辺市真言宗高山寺第三世)退席後当寺に仮住、寛永20年(1643)陽雲和尚(田辺市臨済宗海蔵寺第二世、海蔵寺退席後住山)が中興、寛文7年に京都妙心寺の直末となり、その法系を今に伝える。享保17年(1732)境内周八町が寺社奉行より「六波羅御教書」並びに「二十体羅漢」を有する由緒古跡の禁殺生地の指定を受ける。堂塔も幾度か再建され、安永6年(1777)黄国和尚が現在の本堂を再建、周辺の整備もなる。法燈国師が唐土より持参せし二十体羅漢、法燈国師坐像、覚元禅師坐像、愚堂国師香語、龍賀法印の伝説として「(蛙)鳴かずの池」、「龍賀法印入水」等があり、また「三つ鱗(はだ)」の寺紋にまつわる伝説等が残されている。

山号は当初「八花山」、寛永6年御改以後「八」を「白」と改め、「白華山」となる。末寺として、医王寺(栄)、弘安寺(栄)、西光寺(中)、両願寺(才野)、丈六寺(才野)の五ヵ寺が挙げられるが、このうち四ヵ寺が廃寺となり、現在残っているのは丈六寺(本堂・庫裡)だけである。古くは江戸時代より近西国第八番観音霊場、昭和56年11月28日、紀伊之国十三仏霊場第十番札所に制せられる 

 

第11番 阿閦如来 高野山 高室院

宗派:高野山真言宗

〒648-0211 和歌山県伊都郡高野町高野山599

TEL:0736-56-2005

ご本尊:薬師如来 

 

第12番 大日如来 正南面山 高山寺

宗派:真言宗御室派

〒646-0051 和歌山県田辺市稲成町392

TEL:0739-22-0274

田辺大師とも呼ばれる名刹高山寺は、聖徳太子の御草創、弘法大師御中興の、由緒ある古刹として広く知られ、いろいろの故事来歴が伝えられているのであるが、今日では厄

よけ大師の本山と言われて日曜日や祭日には子供づれの参詣者も多く南紀の名所になっている。田辺市郊外の高台にあって風光明眉で、山上から見おろすと田辺市街は一望の中にあり、遠く瀬戸崎太平洋を望見することもできる。市内から参詣をかねて散歩するにも極めて適当な距離にある。

この古刹に絡まる、いろいろの故事来歴についてお話しましょう。(白禅)

今から千三百数十年の昔第三十三代推古天皇の時代に、熊野の国牟婁の郡に、お金持ちで智識の豊かな一人の長者が居た。人々は牟?の長者と呼んで非常に尊敬していた。

長者はある年都に出て聖徳太子の人格に深く感動し心から傾倒したのである。仏教が渡来して、まだ間もない頃であったが、太子は深く仏教に帰依し各地に寺院を建立され

ていた。長者もまた太子の感化をうけて熱心な仏教徒となった。

聖徳太子は、上宮太子(じょうぐうたいし)とも申し上げる。非常に英邁な御方で、推古天皇(女帝)の御即位と同時に御歳二十一才で摂政となられて、薨去されるまで二

十八年間、政治をお執りになった。その間当時の先進国随唐(中国)の文化を取り入れることに大いに努力されたので、日本の文化はこの時代に画期的な進歩をとげて、空前の大功績を残されたのである。それで工芸建築の仏さまとしても、今日に至るまで非常に尊崇されている。

長者は太子の御意をうけて、多年蓄積してきた私財をもって歳月をかけ、荘厳な御堂を南面山に建立したそして勧修学問寺と名付けた。高山寺と改めたのは遥に後世のこと

である。

この御堂が竣成したその夜半のことである。長者の門辺にあたって、夜の静けさを破り突然はげしい馬のいななく声がしたので、長者は何事であろうと急いで門を開くと、

夜目にも明らかに見られた。太子の愛馬「鳥の駒」(くろのこま)が薬師如来と上宮太子の御像を運んで来て、長者に賜わったのである。侍臣従者達も旅路の疲れを見せず皆元気

で、鳥の駒は長者を見ると嬉しげに一きわ高くいなないて勇みたつのであった。長者は自分のような者を、これ程までに御心をおかけ下さってと、非常に感激し感涙にむせぶので

あったが、ふと目がさめるとこれは一つの夢であった。そして再び夢路に入り暁近く起き出ようとすれば、昨夜夢にみた薬師如来と上宮太子の二つの尊像が朝日にはえている。驚

いて直ちに南面山の御堂にお祀りして、厚く供養し礼拝したのであった。里人達はこの奇蹟を話し合い近在にも伝わって遠近の善男善女の参詣がだんだん多くなってきた。そして

当地方に於ける文化の中心ともなって栄えたのである。  

月日はめぐる小車のように二百余年を経て、弘仁七年初夏の頃救世の大聖、弘法大師は熊野遍歴の途中田辺に来られた。その頃大師は山獄地帯を開拓して高野山に大霊場を

建設中であったが、その多忙な時日をさいて当地に見えられたのである。そして南面山の麓で図らずも異様な服装をした体格の大きな一人の老翁に会われて挨拶を交わされたが、この老翁が南面山勧修学問寺鎮護の稲荷明神であった。明神が申されるに、「昔釈尊が霊鷲山にて御説教なされた会座で、はじめてお目にかかったその勝縁に依り、今生他生とその相は変っても、仏法弘通、衆生済度の誓の変らないことは、まことに尊い極みである。

 

 

第13番 虚空蔵菩薩 萬徳山 瀧法寺

宗派:高野山真言宗

〒649-1532 和歌山県日高郡印南町印南原495

TEL:0738-44-0436

 

 

 

結願 高野山 奥の院

御本尊 弘法大師

開創 弘仁七年816年)、弘法大師開基。

所在地 和歌山県伊都郡高野町高野山

電話 0736-56-2002 代 

 

 

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