六六三年、即位前の天智天皇(中大兄皇子)は皇位継承問題の際に役行者に勅し宝参りをされ、伊奈瀧において大修法がなされました。
その時に御示現された金龍満願不動明王にあまたのお告げを頂き、そのご法悦によって法灯料を当寺に賜りました。
その後、天智天皇の御孫である市原王も宝参りをされ、万葉集四一二にその宝の玉の幸を詠まれてございます。
弘仁元年(八一〇年)、お大師さまは西国観音霊場第四番、施福寺(和泉マキノオ山)より御来光なされ、秘密真言の御修法を行い、曼荼羅となって現れた最尊無上の虚空蔵菩薩の萬徳を頂き、宝大師となられました。
その際、参籠している多数の修行者の協力を得て、阿宇大本願を根本となされる十三佛虚空藏大菩薩を御本尊とし、伊奈瀧太権現と三宝大光神を御奉祀し、伊奈瀧大宝院萬徳山瀧法寺をお開きになられました。
ここに瀧法寺としての歴史が始まります。
宝大師はさらに七福神、歓喜天、弁財天、四大天、稲荷大明神などをお祀りされました。
鎌倉時代中期、三井寺の傑僧として名高い実伊上人は日本屈指の宝参り霊場である瀧法寺をあつく信奉し、瀧法寺の繁栄にその力を注がれました。
その基礎ともなる十一面観世音菩薩、千手観音菩薩、そして西国三十三所観世音霊場の石像奉祀をなされております。
また実伊上人は法教を深く学ぶと共に、和歌の達人でもありました。
紀州有田、日高の領主であった湯川直春は瀧法寺を深く信仰し、瀧法寺周辺に十箇所の城を建て、その守りを堅固なものにしておりました。
しかしながら湯川一族が徳川方に内通していた為、瀧法寺は天正十三年(一五八五年)豊臣の軍勢によって焼き討ちにあいます。
印南原村を寺領としていた瀧法寺はその後六〇年あまりの間、復興に苦しみます。
焼き討ちの後、瀧法寺のお坊さん達は艱難辛苦をいとわず一心に信仰を深め、おつとめに励んでおりました。
その頃、印南原村滝ノ口に信心深い古部という家があり、働き者で器量も良いトミという娘が焼き討ちを悲しみ、その再興の為に自らの全てを投げ出して働いたお金を奉納します。
長い年月をかけて貯めたお金は二百文。奉納を頂いた老院主は涙を流してこれを頂き、古部家と共に奉告法要をつとめ、瀧法寺再興の大きな一歩となったのです。
古部トミはその後、楠右エ門という立派な武家出の方と一緒になり、おたきさまの御加護を賜り「たきひめ」という娘を授かります。